死生観

死生観を特に持たない人もいるかと思うけれど、わたしの死生観は、わたしの祖父が亡くなったときから気づかぬうちに少しずつ作られていったなと思います。死は悪でもなく、常に背中合わせにあるもの。



振り返ると22年前、翌日誕生日を控えた夜に電話がかかってきて、病院に向かい、日が変わって30分ほどで祖父は亡くなった。
祖母と、祖父の子供たち3人とわたしで看取った。
なのでわたしの誕生日は祖父の命日でもある。


11年前に、膵臓癌の末期だった祖母が病院で亡くなるときも、亡くなるまでずっとわたしは手を握っていた。
最後は親戚一同で看取った。
80歳だった。


4年前、肺癌の末期だった継父が亡くなるときも、母が動揺してなぜか荷物を取りに自宅に帰ってしまい、継父は最後に母の声が聞きたいはずだと思って心配したけれど、最後は無事に母と2人で看取れた。
69歳だった。


母一人娘一人で過ごしていたわたしにとっては祖父母はとても大きな存在だったので、例えるなら、わたしの周りを照らしていた蝋燭の灯りが一つ消え、また一つ消え、、周りが暗くなっていくようでとてつもなく寂しかった。
新たに家族となった継父も、こんなに早く居なくなるとは思っていなかった。


でも今思えるのは、そのみんなの蝋燭の炎はいつのまにかわたしに注がれていて、わたしの炎はとても大きくなっているのです。消えて周りが暗くなったのではない、自分が明るくなって周りが暗く見えているんだ。そう思えるようになりました。
そしてまた、わたしの周りには大切な人たちの蝋燭が灯っています。育てられたわたしの炎もまた、いつか誰かの蝋燭に受け継いでいくのだと思います。



人気の投稿